小学校受験が東京都を中心にして一般的になってからかなりの時間が過ぎました。古くはご両親の世代で中学受験が普通の事のようになった時代、中学から私立や国立に通わせる事の意味が手さぐり状態だった事も有るわけですから、あとは幼稚園受験が一般的なものになることしか残っていないと言えるでしょう。小学校受験が普通の事になっても、現実には幼稚園受験と同様にその意義を理解しておられない親の姿がほとんどであり、毎年ご両親にその中身や受験校選びについて一からご説明しなければなりません。ですから、ご両親の学ぶべき内容は幼稚園受験とさほど変わらないでしょう。大きな違いは年中ですでに子供の能力に差がついてしまっているという親にとっては厳しい現実です。二年保育受験ですらその差は大きいのですから当然といえば当然なのですが、母親は意外にその事実に気がついていません。まあ、せいぜい足が速いとか絵が上手程度は理解できるのですが、どうも現代の日本人社会は子供には能力差があるという現実から目を背けたり子供は皆同じで平等だ!的な考え方を知らないうちに母親たちが持つ社会と言えます。日本は官僚社会主義的な国ですから、それの方が管理しやすいのでしょうが、果たして皆平等なのでしょうか?人間は生まれた時すでに親からの遺伝子で能力差や性格の違いを持っていると思います。一歳から三歳までは親という個人の力で育て、その過程で子供の能力を把握し育む時期だと思います。しかしその後は社会が子供を育てるものだと認識し、徐々に他者に任せていく過程を踏まなければ大人にすることはできません。幼稚園や保育園がその機関なのですが、基礎、例えば忍耐力や生活力、そして言語理解力や運動能力、判断力や理解力等々をある程度身につけていないと社会性を学ぶ機関において吸収する事が全くできない子供になってしまうのです。幼稚園等で例え優秀な教師がいたとしても、何も身につけていない子供を育てることは不可能です。そのような状態の子供の親ほど園に文句が多く教師を困らせ、他の親とも適切な人間関係を結べないばかりでなく、聞く耳を持っていないものなのです。自由保育全盛の現場では聞く耳を持たない親や何も身につけていない子供を育てる事は不可能に近いのです。もし不足しているなと感じたら親は反省し、その場についていけるように努力すべきです。その繰り返しを怠った結果、見えてくるものは小学校受験の不合格です。努力をしない親は面接でも評価されない親と断言できるのです。ここではそのような低次元の事で時間を費やすわけにはいきませんから先に進みます。
小学校受験を考えるご両親と話してみて、最も感じるのは何の為の私立や国立の小学校かを全く理解していないのに受験を考える親があまりにも多すぎることです。私立や国立の小学校は中学とは違います。例え同じ名前の学校であっても、エスカレーター校に見えても中身が違うのです。小学校では幼稚園ほどではないにしても親も大事な財産なのです。
ではどのような財産かと言うと一番目はやはり私立ですから費用を出し続けられるかどうかという事です。公立はほとんど費用を税金で賄いますが、私立はそうはいきません。学費だけでは不足ですから、政府補助金があるのですがそれでも不足しますので寄付金も大切な運営資金です。宗教校の場合はその機関からの補助金もありますので、カトリックは安い費用が多いのですが、布教という最初の目的から考えても当然と言えます。プロテスタントは宗教的教育と学校の先生方が述べられるように、カトリックと比べると比較的自由な校風で、保護者の参加行事も多くなり同時に費用も高くなっています。どちらにしても資金元が親からの負担であることに違いはありません。
二番目はその費用を出せる親という事とつながるのですが、その学費等意外にも親同志の付き合いにかかる費用も捻出できる余裕のある親であるかどうか問われます。私立の子供は公立と比較すると親同志の家に出入りします。一緒に旅行する事や、友達の親と食事することだって普通にあることです。なぜそうしてきたかというと、子供は他者との深い関わりで色々なものを学ぶからなのです。現代の子供はそのような事が少なくなってしまいましたが、地域社会の人間関係が希薄になったからでしょう。私立は様々な地域から通学することで、学校の場が地域社会を作り、そこから大人として必要になることを学ぶ場所なのです。ですから各家庭も子供にとってとても大事な社会勉強の場なのです。食習慣の違いや、大切にしている事の違い等他者の生きざまを経験することは人間の成長にとって実に大きな影響をもたらすものなのです。社長業の王道を学ばせるという言葉がありますがそれは社会に出てからでは遅いのです。このことから言える結論は、私立の小学校は様々な社会の人の付き合い方を学び、将来的には社会をリードする人材を育成することを目的として親が通わせることにあると言えるでしょう。もちろん生活格差があることが普通である公立であってもその事は学べます。ただ大人になった時にどのような相手でも小さくならずに付き合える姿は小さい時から自分だけの生きざまを持っている他者の生きかたに触れることが必要なのです。学習院初等科で皇室の方々と同級生になったことで、社会にでてからもお付き合いがあるなどの例は究極ではあるけれども典型的な例でしょう。
三番目は受験を高校や大学ですることになるかも知れないけれども、それまでは伸び伸びとその子の人生をその子供の速度で歩ませたいという考えです。中学受験は悪いことではないけれども小学校高学年の時期に、ある方向に偏ってしまう生活は多少なりとも社会性の欠如につながる可能性があるからでしょう。中学受験経験のある親にとってはよく感じる心配だと思います。ただ、中学受験に成功し世間が羨む大学に進んだ親にとっては、そうは言いながらももし私立小に進んで、自分と同等の大学に進めなかったらどうしよう。就職は大丈夫だろうか?浪人しないだろうか?等々様々なことで悩むと思います。二兎を追えるかどうかは、やってみなければわからないですし、実際に私立小に通った経験のある方以外は本当のところは分からないのです。現実を見れば成功も失敗もあると思います。ただそれは親側から見た結果であって、子供にとっては大きなお世話です。結局のところ親と子供の人生は違うものという認識を持たない、親離れ子離れのできない親子にとってはどのような道に進もうと同じです。人生をその子供の速度で歩ませるということは、人生の選択を自分で見つけさせるということですから、目標を見つければ一人歩きしていきます。その原点となる時代が良いものであれば、その子供にとっては大きな財産を得たということです。その後のことまで責任は親がもつ必要は無いと言っては言い過ぎでしょうか。でもその考え方の欠如が今の日本と世界との差なのです。人生の歩みは色々です。親が与えられるのはよりよい人生環境しかないのです。それを親から与えられた財産として、子供自身が自分の力で生きていくしかないのです。 |