つい最近,当教室を見学された方から「この教室では絵の描き方は指導しないのですね。楽しく描く事が目的なのですね。」というコメントをいただきました。絵画指導とはそんな風に捉えられているのかと、憤りを感じるとともにこんな誤解をいつまでも放っておく訳にはいかないとつくづく感じました。
造形活動は,他の習い事とは異なる側面があります。水泳にしてもバレエにしても型があり、型をマスターしなければ先には進めません。ピアノは音符の示すルールを理解して、それに従って正確に音を出さなければならないし、算盤は正解を出さなくてはなりません。それぞれの好きな回答でいい、等という事は、絶対にあり得ない。これらの習い事に求められるものは、親も容易に理解することが出来ます。
しかし造形活動には ”これが正解” といったものは無く、活動の結果は級とか段とか云った測り方で評価されるものではありません。子どもは言葉で表現しきれない感覚を描く事に求めますが、絵画の表現活動は全体的な発達のあゆみと連動して発達します。言語発達、情緒・精神・認知の発達がゆっくりと進むのに伴って表現が豊かになっていくものなので、その順路を無視した絵画だけの独立した発達はあり得ません。幼児の絵はただただ感情の発露なのですし,そうあるべきなのです。しかし大人はそれを中々理解せず,あの絵は上手な絵、これは乱雑で汚い絵、と云った一般的な大人の基準に照らし合わせた評価をしがちです。そうした否定的な見方で見られることで、子どもは萎縮し,活動が嫌いになっていくのです。
仮に美術に才能を示して欲しいと願ったとしても、技術習得を目指すのは他の習い事と違って、早ければ早いだけいいとはいえません。幼児期はただ造形の世界を楽しいと感じ、絶え間なくその遊びを続けるしかありませんし,それが正に将来の土台となるのです。バルでは子ども達の絵を豊かにする為にこそ、
充実したカリキュラムを用意する事に腐心していますし、手を取って書き方を叩き込む等という子どもの尊厳を踏みにじる様な事はしないように心掛けているのです。
本来幼児の期間の造形活動には,精神的な効用の側面があり、こちらの要素の方がずっと大切です。自分の気持ちの表現を造形に求め、その表現活動を媒体に人との繋がりを求め、受け入れてもらえることで安定した気持ちを手に入れる。そうして更に表現への欲求が高まり,活動に没頭する事で描いたり作ったりするものの中に様々な発見をする。発見をもっと高次のものに繋げたいと思う気持ちが育ち,忍耐努力して自分の目指すものに近づけたいと思う自発性・積極性を育む。そして目指すものが完成したとき,得難い達成感を味わい自尊の気持ち・自己肯定感を持つ。そのことは造形活動に留まらず,他の全ての分野での成長の為の大きな武器になります。そうした精神活動が、幼児の造形活動であると云っても過言ではありません。
どんなに良い造形活動の環境と出会ったとしても、前述のような造形活動の神髄を大人が理解しない限り,子どもにとっての環境はいくら水を注いでもどんどん漏れてしまう、笊の様なものとなってしまうでしょう。
子どもの頃に絵を描く事が苦手になったと感じる大人はたくさんいます。きっと理不尽な評価にさらされ,傷ついた結果,嫌いになってしまったからなのでしょう。初めから絵を描く事を疎ましいと感じる幼児はいないのです。大人の評価にさらされても、その事が感じ取れる年齢になるまでは、幼児は無心に絵を描きます。それはパルでも実証済みです。もし促成栽培的に子どもの絵を上手に見せるようにしなければならない何らかの要因があるとすれば、その要因の方をこそ改善しなければなりません。もしくは本当にそのような事が必要なのか,実態を検証すべきです。でなければ,折角の成長の貴重な手段を捨ててしまう事になるのですから。 |